昌老

人生万事大丈夫!

2003年01月

この2年間、仕事の日であろうが、休みの日であろうが、毎日毎日「今日は何を書こうか」と思っている。
もはやぼくには、それしかないといった感じである。
と言うより、病気である。

今日は休みだったが、相変わらずぼくは、いつもと同じように「今日は何を書こうか」と思っていた。
気が休まる暇がないのだ。
時間がたてばたつほど、この「何を書こうか」というのが強迫観念になってくる。
落ち着かない。
焦りだす。
頭の中はずっと、
今日は何を書こうか?
今日は何を書こうか?
今日は何を書こうか?
である。

さて、今日はドコモショップに行ってきた。
FOMAの機種変更(FOMAの場合『買増し』と言うらしい)のためだ。
先月FOMAの契約をしたのだが、早くも機種変更のお知らせがあった。
新規の時も破格値で買ったのだが、今回の機種変更もかなり安く手に入った。
前回行った時は、お客が多く待たされた上、機種変更に手間取ったので、かなり時間がかかった。
そういうことがあったので、お客の少ない午前中を狙おうと、今日は早めに家を出ることにした。
読みがあたった。
着いてみるとお客は少ない。
それに、FOMAの手続きはムーバよりも簡単である。
あくまでも買増しであるから、機械をもらえば終わりなのだ。
端末情報を移し換える必要もない。
前の機種からFOMAカードを取り出して、新機種に装着すれば使えるようになる。
これくらいは自分でも出来る。
しかし、自分でやると多少面倒な作業が残っている。
電話帳等の、データのコピーである。
確かにデータコピーも自分でやろうと思えば出来ないことはないが、400件近くも電話帳に登録しているので、手動でやると大変な労力を要してしまう。
以前は電話番号だけだったが、最近はメールアドレスも入っているので、なおさらである。
しかも、ドコモショップに行く前から「今日は何を書こうか」と思っている病人だから、そんな時間は取れない。

そこで、ドコモの人に甘えることにした。
「すいません。データのコピーをしてください」
「ああ、コピーですね。いいですよ」
そこから歯車が狂い始めた。
コンピュータを使うので、データコピーは5分もかからない。
ところが、10分たっても、20分たっても出来ないのだ。
「しんたさん、すいませんが、ちょっとソフトの調子がおかしくて、もう少し時間を下さい」
単に早く帰りたかっただけで、特に用事はなかった。
ぼくは「いいですよ」と返事をした。
そこからまた10分、20分が経過した。
そして1時間が過ぎた頃、また「しんたさん」とお呼びがかかった。
「どうもだめみたいです」とのことだった。

午後2時に家に帰る。
それからずっとデータの入力をやっている。
新聞も読まず、テレビも見ず、ずっとそれに没頭している。
今午前1時を過ぎたところだが、まだやっている。
半分以上は使ってないので、別に全部入れる必要もないのだが、ぼくはこういうことをやる時は妥協しない、と言うより変にムキになる。
しかも、それをやりながら「今日は何を書こうか」と思っている。
それも、ムキになって思っている。
病気である。

『朝日新聞、北朝鮮に叱られる』
今日の朝刊に、北朝鮮の労働新聞が、朝日新聞が「北朝鮮」という呼称を使うことにケチをつけた、という記事が載っていた。
そういえば、最近は以前のように「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)」という呼称が使われなくなった。
そのほうが聞きやすいし、見やすい。
大韓民国を韓国、中華人民共和国を中国、中華民国を台湾と呼び慣わしているのだから、北朝鮮だけがそんなことで目くじらを立てなくてもいいと思うのだが。

しかしこの記事の面白さは、そんなところにあるのではない。
いろいろなマスコミが「北朝鮮」呼称を使っているのに、なぜ朝日だけにケチをつけるのか、という点にある。
この北朝鮮のコメントは、一マスコミに対しての非難ではなく、配下に対する一喝である。
以前は、帰国事業の片棒を担ぎ、拉致問題にも知らん顔し、テポドンが飛んできた時も「人工衛星の実験でよかった」とまで書いて胸をなで下ろし、金正日が拉致を認めた後も相変わらず北朝鮮擁護をし、北朝鮮のお抱え新聞やチョウニチ新聞とまで呼ばれた朝日である。
そう受け止められても仕方ないだろう。
北朝鮮の発言は、「今までいろいろと世話をしてやったのに、いい加減にしとけよ」というお叱りの言葉だったのか、はたまた「これまでどおりに擁護してくれよ」という意思の表れだったのか、そのへんはわからない。

『靖国神社参拝』
西日本新聞が、1月14日に小泉首相が靖国神社を参拝したのを受けて、市民の反応を調査したらしい。
以前なら、靖国絡みの話は「反対」「反発」意見が目立っていたらしいが、今回は「日本人として自然な行為」「当然」と受け止める意見が、批判の声を圧倒していたという。
記事は「日本人の国家観や安全保障への意識は、確実に変わりつつあると肌で感じる」と続き、最後に「新聞をつくる側もバランス感覚がいっそう問われる時代になった」と締めくくっている。
はっきりしない記事である。
だいたい、新聞というのは「始めに姿勢ありき」ではないのだろうか。
その姿勢を底辺に置いて展開するからこそ、その新聞の色も出てくるのだと思う。
読者や世論の意見でコロコロと姿勢を変えられたら、安心して読めないじゃないか。
せっかく「これは」と思って取りだした新聞なのだから、朝日みたいな優柔不断はやめて欲しいものである。

だいたい、靖国関係の記事は「昨日、首相が靖国神社に参拝しました」で終わればいいことであって、それにいろいろコメントをつける必要はない。
今日、ダイエーホークスが筥崎宮に必勝祈願をしに行ったが、それについて「神聖なスポーツに宗教を持ち込みやがって」などというコメントは一つも書いてない。
受験シーズンだが、太宰府天満宮に参る受験生の記事は出ているが、そこに「受験に宗教はいらない」というコメントはない。
なぜか。
それだけ、神社というものが生活に密着したものだからだ。

また戦犯についてもとやかく言われるが、それを言うなら出雲大社にも参ることが出来なくなる。
大和朝廷側から見れば、大国主命は戦犯なのだから。
戦犯とはあくまでも勝者側の見方に過ぎない。
そもそも東京裁判自体が無効だと言われているのに、戦犯も何もあったもんじゃないだろう。
もしそれでも戦犯を求めるとしたら、ぼくは蒋介石とルーズベルトと中国共産党を推挙する。
あの戦争は、彼らの思惑に日本が振り回された戦争だったからだ。

ま、ともあれ、首相は来年も靖国神社に参拝するということだから、やっとこれで日本も元通りになってきたなと思う。
あとは、野中や菅が首相にならないことを望むだけである。

明日も寒いらしい。
ということで、今日も早く書いて、早く寝ることにしよう。

とはいうものの、最近ネタ詰まりというか、頭が回らないというか、パソコンの前に座っても、テーマが決まらないことが多い。
今日もご多分に漏れず、ネタなし、テーマなし状態でパソコンの前に座っている。
さて、何を書こう。

昨年の今日は、ギターのこと書いてたんだった。
そういえば、最近はギターも弾いてないなあ。
まだ指は動くんだろうか。
仮に指は動いても、指先の皮膚が柔らかくなっているから、そう長い時間は弾けないだろう。
風邪を引いて以来、歌も歌ってないし、いまだくすぶっていたシンガーソングライターの夢もここで途切れる、ということか。
食うことに困った時、ストリート・ミュージシャンという手段を残していたが、それもそろそろ没にしたほうがいい。
もしそういう状況になったら、ストリート詩人にでもなろう。
詩を色紙なんかに書いて売るとか、駅前で大声出して詩を朗読するとか、見知らぬ人に「あなたへの詩を作ります」なんて声をかけるとか、『詩人』と書いたプラカードを提げて歩くとか、チョークを持って道いっぱいに詩を書くとか、やり方はたくさんあるだろう。
その際は本名を伏せて、新しいペンネームを考えよう。
あの色川武大みたいに、いくつかのペンネームを使い分けてみるのも面白い。

ペンネームといえば、二十歳の頃ぼくが使っていたペンネームは『山原ほうぼう』だった。
この名前を使って、ある雑誌に詩を投稿したことがある。
が、結果は「年会費をお支払いいただければ掲載します」というものだった。
この時は、年会費が払えなかったのでやめた。
その次に使ったペンネームは『条一郎』だった。
このペンネームでは何度か雑誌に載った。
しかし、掲載はされるものの、それ以上のものがなかった。
結果、サラリーマンを選択することになる。
それからは、ペンネームを考えるのが面倒になって、本名で投稿するようになった。
しかし、今度はまったく掲載されなくなった。
名前より中身が大切なことは重々わかってはいるが、せっかくやってきた姓名判断をここで活かさない手はない。
『しろげしんた』はわりと字画がいいから、投稿に関してはこの名前を使ってみようと思っている。

さて、その投稿のほうだが、詩や短歌は公募が少ない。
といって、公募数の多い小説なんかは、万年ネタ切れのぼくには無理がある。
ということで、エッセイに挑戦しようと思っている。
今までこの日記で書いたことをまとめていけば、なんとか形にはなるだろう。
あとは、根気と運だけだ。
下手な鉄砲作戦をずっと続けていけば、どこかで拾ってくれるだろう。
仮にそれで何らかの収入が得られるようになったら、しめたものである。

もしリストラなんかにあって食うことに困ることになれば、新しいペンネームでストリート詩人をやりながら、『しろげしんた』名で投稿生活をやっていこう。
ぼくの姓名判断が正しければ、きっとうまくいくはずだ。
東京に別邸を持つのも夢じゃない。
しかし、そうなるまでには時間がかかるだろうから、それまでは新聞配達やコンビニの夜間店長などをやりながら食いつないでいこう。
リストラ恐るに足らずである。

 夜深く、雪の白く降り積もり
 街はなお寒く、夢はまだ遠く

 風強く、服の隙間をさして
 身は重く辛く、後姿寂しく

  揺れる春の日は遠く
  待ちわびた花のつぼみ涙を落とし
  昨日までの明るい笑顔
  また今日深く暗く沈み

 凍りつく、濡れた道あてもなく
 うつむいた人が、声もなく続く

19歳の頃、大学の入試試験から帰ってくる時に雪が降りだした。
雪は見る間に道を覆い、水たまりは早くも氷り始めていた。
その日に作った詩である。
生まれてこの方、あの日ほど寒い思いをしたことはない。
少し風邪気味で体調は優れず、受験の失敗を自覚していたから気分的に落ち込んでいる。
そういう状態の時に、突然襲いくる寒波。
風はビュービュー吹き、服の隙間を刺してくる。
傘を持たない身に、雪は容赦なく降りかかる。
その後、何度も寒い日はあったが、肉体的、精神的に落ち込んではなかったから、あれほどの寒さを感じたことはない。
おそらく、凍死でもしない限り、あのような寒さを体験することはないだろう。

とはいえ、今日は寒い。
昨日の天気予報で、「明日は一日、冷蔵庫の中にいるような状態でしょう」と言っていたが、その通りで、今日の最低気温は2、1度だった。
昨日が8、9度だったから、その差6、8度、この温度差は風邪がまだ完治していない身には辛い。
明日はまだ寒くなって、最低気温は-1度だという。
どうも今年の冬は、ぼくを殺そうとしているらしい。

さて、明日もしも雪が積もっていたらどうしよう。
前回の積雪の時は、通れなかった箇所はあったものの、日曜日だったこともあり、渋滞はしなかった。
しかし、明日はウィークデイだ。
九州道や都市高速はもちろんストップするだろうから、当然大渋滞が予想される。
そうなった時、一番被害を受けるのがぼくの住んでいる地域だ。
雨の日でさえ渋滞するのに、雪ならなおさらである。
また3号線に出るまでに一苦労するだろう。
この間、トラック故障のために、5分で抜けられる道が40分もかかった。
明日もそのくらいの時間を予定しなくてはならない。

もし道路が凍結などしていたら、JR通勤ということもあり得る。
うちからJRの駅までは、歩いて10分。
途中、吹きざらしのだだっ広い道を歩いて行かなければならないから、地獄である。
途中で咳き込みでもしたら、どうしよう。
寒さと強い風で、しばらく治まらないだろう。
その拍子に、こけるかもしれない。

まあ、夜中にいろいろ案じてみても仕方がない。
すべては夜が明けてからのことだ。
少し早起きしなければならないから、今日はこの辺で終わることにする。

長い間開けてなかった、古い書類入れがある。
今日何気なく開いてみたら、引き出しの一つに、その存在さえ忘れていた写真が入っていた。
量にすると100枚程度で、生まれて9ヶ月目のものから30代後半までのものが無造作に入れてある。
5歳頃の実家付近や、昭和40年代の小倉駅など、今となってはもう見ることの出来ない風景がそこにある。
また、ぼくの記憶の中には存在しない、ステージで弾き語りをやっている姿や、喜多方ラーメンの旅の記録がある。
つい懐かしくなって見入ってしまった。

写真を見ているうちに、一つの疑問がわいてきた。
それは、その中にある一番古い写真を見た時だった。
どこをどう見ても今の顔に結びつかないのだ。
今の顔に当時の面影が残ってないと言ってもいい。
まず顔の形が違う。
今のぼくの顔は、似顔絵のように長めの顔であるが、その写真の顔は丸顔に近い。
目が違う。
その後の写真を見るとどれも目が大きいのだが、その当時はかえって小さく感じる。
近々スキャナーが手に入る予定なので、そのうちこのサイトで、その写真を公開しようと思っている。
今のぼくを知る人は、おそらく別人だと思うだろう。

それにしても白黒写真の多いこと。
20歳ぐらいまでの写真は、もちろんカラーもあるのだが、圧倒的に白黒である。
そこにある一番古いカラー写真は6歳の頃のもので、それ以降高校2年までは白黒しか存在しない。
高校2年の時の写真は、夏休みに鹿児島・宮崎に行った時のものである。
その後20歳までの写真は、また白黒ものになっている。

ところで、そのカラー写真だが、意外なことに気がついた。
6歳の時の写真のほうが、高校2年つまり17歳の写真よりも質がいいのだ。
これはどういうわけだろうと考えていたが、ふと思い当たることがあった。
ぼくが17歳の時といえば、1974年である。
1974年といえば、オイルショックの翌年である。
オイルショックの時、何があったか。
そう、紙不足だ。
トイレットペーパーが、店頭からなくなっていた時期だ。
その影響は出版業界にも出ていた。
73年版の『ノストラダムスの大予言』という本をいまだ持っているのだが、その紙の質の悪いこと、ほとんどわら半紙状態である。
あの頃は、紙と名がつくもの、すべての質が悪かったのだ。
写真にも影響が出るのは当然である。

そう考えると、鹿児島写真は、その時代を反映しているということになる。
これは大きな発見だ。
ぼくは今まで自分の写っている写真を、白黒でしか残ってないとか、色が悪いなどという理由からあまり見ることはしなかった。
しかし、そういう質の悪い写真こそが、確かにあの時代に生きたという証である。
いわば勲章である。
そうやって見ると、ぼくはずいぶん勲章を持っていることになる。
これからは、そういった勲章の数々を、このサイトで紹介していくことにしよう。

うちのバイトに伊藤君という大学生がいる。
昼食時に彼と話していたのだが、途中で彼の携帯電話が鳴った。
「おい、電話が鳴りよるぞ」
「ああ、これメールです」
「お前、聞くところによると、メール魔らしいのう。一日何件ぐらいメールしよるんか」
「多い時で50件ぐらいですかね」
「50件?!」
「多いですかねえ」
「多いわい」
「でも、メールしなければ友だちが減るようで寂しいじゃないですか」
「お前、メールでしか友だち付き合い出来んとか。まあそれはそれとして、そんなにメールしよったら、他に何も出来んやろ?」
「他にすることないですから」
「帰ってから本を読んだりせんとか?」
「本はマンガしか読まないです。マンガ以外は白けるじゃないですか」
「じゃあ、テレビは?」
「嫌いです」
「ところで、携帯に月なんぼ払いよるんか」
「少ない時で2万円、多い時で7万円です」
「7万!?」
「でも、親が払ってくれますからね」
「お前、携帯代を親に払わせよるんか?」
彼はいかにも当然という顔をして、「はい」と言った。

ぼくもけっこう携帯を使うほうだが、それでも多い時で2万円程度だ。
最近は携帯で電話することも少なくなったし、頻繁に使うiモードも、FOMAに変えたため通信料がかなり安くなり、ドコモに支払う額は毎月だいたい7千円程度である。
「ぼくの学生時代に携帯電話があったとしたら、そこまで携帯電話を使うだろうか」と考えてみた。
そして、「使うより以前に、携帯を持たないだろう」という結論が出た。
学生時代のぼくはへそ曲がりだったから、「みんなが携帯を持っているから、持つのは嫌だ」と言って、持たなかったにちがいない。

さて、伊藤君である。
「お前、携帯のことを、ホームページに書いていいか」と、ぼくは伊藤君に聞いてみた。
「書いてどうするんですか?」
「いろんな人の意見を聞いてみたいけの」
「別にかまいませんよ」
「じゃあ載せる。で、実名で書いていいか?」
「どうしてですか?」
「イニシャルで書くとI君になるけど、I君じゃけっこうパソコンで見にくいけのう」
「いいですよ。どうせ、知らない人が読むんでしょ?」
「いや、この店の人も読むよ」
「それは困ったなあ」
「おれは困らんけ、書くぞ」
「好きにして下さい」
ということで、彼の承諾をもらって、実名で書くことが決まった。

ところで、『いろんな人の意見…』は口実である。
「世の中にはこういうバカな学生がいる」ということを教えたかったのだ。
いったい彼は、将来どんな人間になるのだろう?
それに、親は彼が就職してからも、携帯代を払ってやるのだろうか?
以前、マンガ『人間交差点』で、親から勉強したご褒美として2000万円のカードをもらい、殺人事件を引き起こした学生の話を読んだことがある。
彼もそうなるのではないか、と余計ながら心配している。

最近活字に飢えている。
そのせいで新聞をとることにした。
実家が朝日、親戚が読売、会社が毎日なので、別に同じ新聞をとる必要もないと思い、ブロック紙の西日本新聞に決めた。
昔から産経新聞の論調が好きで、本当なら産経をとりたかったのだが、いろいろ支障があるため、今回はとるのをやめた。
その支障の一つに、記事が遅いというのがある。
一時期、試験的に産経をとっていたことがある。
ところが、九州に拠点を持ってないため、大阪本社版の前日の記事なんかが載っている。
1999年にダイエーホークスが優勝した時、記事になったのは翌日だった。
もう一つの支障は、九州のニュースがほとんど載ってないということだ。
これは致命的である。
ぼくは野次馬根性旺盛なので、地域の話題とかには特に敏感である。
その地域の記事が読めないとなると、新聞をとる意味がない。
直接産経に電話して「西部本社を作って下さい」と懇願したのだが、今のところその予定はまったくないとのことだった。
しかたないので、産経はネットで読むことにした。

ところで、この西日本新聞だが、ぼくはこの新聞に二度載ったことがある。
一度目は、高校合格者発表の時だった。
この時は名前だけだった。
二度目は、金鷲旗高校柔道大会の出場者としてだった。
クラブの練習中に、突然西日本新聞の記者が現れた。
「金鷲旗の取材で来たんだけど。主将は誰?」
「ぼくですが」
「名前は?」
「しんたといいます」
「しんた君ね」
ということで、取材が始まった。
ところが、新聞を読むと、こちらが言ったことが全然記事になっていない。
『主将しんたの得意技は、はね腰』などと書いてある。
自慢ではないが、ぼくははね腰という技は一度も使ったことがない。
というよりも、出来ない。
もちろん取材の時は、はね腰のはの字も口に出さなかった。
どこをどう間違って、「得意技は、はね腰」となったのだろう。
ちなみに、当時のぼくの得意技は『谷落とし』というマイナーな技だった。

さて、その西日本新聞の今日のニュースだが、やはり明日の北九州市などの市長選が話題になっている。
プレ統一選だそうな。
出馬しているのは、『元官僚』『弁護士』『ビジネスコンサルタント』の3人。
一人共産党推薦がいるにはいるが、基本的には全員無所属。
これをプレ統一選と呼ぶには、少し無理があるような気がする。
どうせまた、元官僚の現市長が当選するのだろうから、その他は形だけの対抗馬に過ぎないということになる。
こういう茶番選挙のどこを見て、次の統一地方選が占えるというのだろう。

ぼくは、こういう結果のわかっているような選挙には行きたくない。
もちろん選挙には参加しなければならないが、選挙に行かないことも参加のうちである。
しかし、会社は行ってくれというし。
さて、どうしたものか。
行けば行ったで、入れる人を決めなくてはならない。
まったく知らない人だからなあ。
困ったものだ。
あ、そうだ!
西日本新聞で各候補者の得意技を見て決めることにしよう。

テレビを見ていると、突然「ピコピコ」という音とともに入ってくるニュース速報。
以前はそれほどでもなかったのだが、最近つとに多いようだ。
神戸の震災以降、特に地震に対しての速報が目につくようになった。
直接九州とは関係ない北海道などの地震情報や、震度1程度の地震情報まで入ってくることがある。

日本は地震大国といわれているが、ぼくの住んでいる北九州地方は、地震の少ない地域である。
この世に生を受けて45年経つが、その間体で感じた地震というのは10回ほどしかない。
たまにニュース速報で、「北九州で地震」などというテロップが出ることがあるが、そのほとんどが体に感じないものだ。
郷土の歴史を見ても、地震についての記述はほとんどない。
679年に『筑紫大地震』があったと書いているだけだ。

そういう理由から、防災対策などは一切してない。
東京にいた時は、しょっちゅう地震があったので、こちらから持って行った乾パンを非常食として下宿に保存しておいた。
まあ、その乾パンは災害用の非常食としてではなく、金欠時の非常食となったのだが。

東京に出る時、いろいろな人から「東京は地震が多いから気をつけて」と言われたが、実際の地震にほとんど遭ったことがないので、あまりピンとこなかった。
ところが、東京に出た初日から下宿が揺れだした。
「怖い」というよりは、「これが地震か」妙に感動したのを覚えている。
ところが、揺れたのはその日だけではない。
翌日も、その翌日も、毎日毎日揺れるのだ。

ある日下宿のおばさんに、「さすがに東京は地震が多いですね」というと、「え、そうかしら」と言われた。
これだけ毎日揺れているのに気づかないとは鈍感だなあ、と思っていた。
後でわかったことだが、その下宿は古い木造建築だったため、人が歩くと揺れるのだった。
おばさんはそのことを知っていたので、もしかしたら皮肉を言われたと思ったのかもしれない。

とはいえ、さすがに関東地区は地震が多かった。
下宿にいる時は毎日揺れているのでわからないのだが、月一のペースで行っていた横須賀の親戚でも毎度のように揺れていた。
さすがに、横須賀での揺れは地震だとわかっているので、あまりいい気分はしなかった。

ところで、例の阪神大震災の時、ぼくは漠然とこれは人為的なものじゃないかと思っていた。
その少し前に、ある雑誌でソ連の人工地震の記事を読んでいたからだ。
ところがその後、オウムの事件が起きた時に、幹部の村井秀夫がそのことに触れたことがある。
「神戸の地震ですが、あれは人為的なものではないですか。地震爆弾か何かでやったと思うんですが」
他のコメンテーターは「そんなことはあり得ない」と反論していたが、案外彼は何か知っていたのかもしれない。
彼が殺されたのは、そのことをテレビで言ったすぐ後だった。
毎年1月17日になると、そのことを思い出す。
ぼくの中で、釈然としない歴史の一つである。

この間メキシコで地震があった。
東海地震もいつ起きても不思議ではないと言われている。
北朝鮮の脅威もさることながら、こちらのほうの対策も充分に立てておかなければならない。
その際、遷都の問題も出てくるだろうが、その時は福岡県を推薦します。
地震は少ないし、台風もそれほど多くはない、さかなもラーメンもおいしいし、ホントいいとこですばい。

最近近所のおじさんが入院したのだが、薬のせいで変な行動を起こすようになったと言っていた。
病院にいるのに、夜になると決まって家にいるような錯覚に陥るらしい。
そのため、自分のものも他人のものも自分のものと思うようになってしまい、勝手に他人のカバンを開けたりすると言うのだ。
その持ち主がそこにいなければ、手癖が悪いということになるだろう。
しかしこのおじさんの場合、その持ち主の前でやってしまうという。
しかも、翌朝になったら、そのことはすっかり忘れているという。
病院側も、同室の人とトラブルを起こされたら困るので、このおじさんを個室に移した。
おじさんは、今罪悪感にさいなまれているという。

以前似たようなことが、うちの親戚内であった。
当時、その親戚は腰痛で通院していた。
病院から薬をもらってきて服用していたのだが、その中にどういうわけか精神安定剤があった。
それが事件を引き起こした。
ある日、夜中に警察から電話がかかってきた。
何でも、警察署にその親戚から自殺予告の電話があったというのだ。
駆けつけてみると、親戚の人は包丁を首にあて、「死んでやる」などと言って吠えていた。
警察も説得を試みたらしいのだが、言うことが支離滅裂で、話にならなかったということだ。
とりあえずぼくは包丁を取り上げ、「明日話を聞いてやるから、今日は大人しく寝とけ」といい、寝付くまでそこにいた。
部屋の中を見てみると、テーブルの上に病院からもらった数個の薬の殻が置いてあった。
その中には、例の精神安定剤も入っていた。
どうも、それを飲んでからおかしくなったらしい。
翌朝、親戚宅に電話をしてみると、「え、そんなことがあったん?」と言う。
全く覚えてないのだ。
至って冷静で、言うこともはっきりしていた。
数日後、病院に出向き、医者に「もうあの薬を入れないでくれ」と頼んだ。
それがよかったのか、それからはそういうことは起こらなくなった。

ところで、先のおじさんが騒ぎを起こしたのは、うちの親戚が通っていた病院と同じ病院なのである。
おそらく、同じ薬を投与されていたのではないだろうか。
聞くところによると、そのおじさんは突然倒れて、その病院に運ばれたという。
ところが、いろいろ検査したにもかかわらず、その病気が何であるのか、その病院ではわからなかったらしい。
しかし、倒れた時の状況などを聞いてみると、どうも自律神経失調症のようである。
ぼくの知り合いに、何人か自律神経失調症で悩んでいる人がいるが、そういう人たちと症状が似ているのだ。
しかも、そういう人たちも、このおじさんと同じように、最初に運ばれた病院では病名がわからなかったという。
結局、ある人は『てんかん』と言われ、ある人は『貧血』だと言われたらしい。
しかし、他の病院で検査をしたら、そういう病気は見あたらなかったそうだ。

それにしても、病名もわからないのに、薬を与えるとは何事だろう。
ぼくが医者や薬を嫌う理由は、こういうところにもある。

おそらく風邪からきているんだろうと思うが、最近胃がもたれることが多い。
食事をしてから1時間ほどして、この症状が始まる。
別にそれで気分が悪くなるとかそういうことではないが、何か普通ではない。

他にもある。
鼻が詰まっていたり、鼻水が出たりするわけではないが、鼻の奥が妙に水っぽい。
それが、違和感を醸し出している。

のどがおかしい。
痛いのではないが、どっしりとしたものが、のどに座り込んでいるような感じがする。
若干熱も持っているようだ。
なるべく首は冷やさないようにしている。

金縛りにあう。
そのため、寝不足になってしまう。
また夢見が悪い。
決まって同じ夢を見る。
薄暗く天井の高い、古びた倉庫の中にいる夢だ。

気力が萎えている。
どうも、意欲がわかない。
例えばこの日記にしろ、何を書いていいのかわからなくなるのだ。
以前はこういうことはなかった。
とにかく座れば、何かネタが浮かんでいたのだが、最近はそれがない。
また仕事中にも、何も出てこない。
まず、感動がないのだ。
酔っぱらいのじいさんが来ても、変なクレーム電話がかかってきても、さして気になるようなことがない。
時間が経てば終わる、という、何か諦観のようなものが芽生えている。

とにかく、昨年末より健康ではない。
早く以前の体調に戻したいのだが、何か方法はあるのだろうか。
病院に行っても、この状態から解放されるとは思えない。
薬漬けになって、他の箇所を悪くするに決まっている。

知り合いに、薬ばかり飲んでいる人がいた。
毎食後、片手いっぱいの薬を服用しているのだ。
何をそんなにいっぱい飲む必要があるんだと、尋ねたことがある。
すると、「薬を飲むと、他に障害が出てくるので、それを押さえるために飲んでいる」という答だった。
例えば、心臓の悪い人が心臓の薬を飲む。
しかし、薬を飲むと胃をやられるので、胃薬を併用する。
薬を併用すると抵抗力がなくなるので、滋養強壮剤を飲む。
ビタミン剤を飲む。
そうなると便の出が悪くなるので、下剤を飲む。
という具合である。
素人考えだが、この人は元々心臓が悪いのだから、心臓の薬だけを飲めばいいのだ。
それで胃が荒れるというのなら、牛乳を飲んで胃を守ってから薬を飲めばいいじゃないか。
ぼくはそう思っていたのだが、その人は真面目に医者の言いつけを守っていた。
結局、薬で腎臓をやられ、死んでしまった。
最期まで、薬を手放さなかった、という。
果たして、この人は薬を服用しだしてから死ぬまで、体調のいい時があったのだろうか。

さて、そういうこともあったので、ぼくは薬というものをまったく信用してない。
今回の風邪でも、風邪薬を飲んだのは2日間だけである。
人から「薬は続けたほうがいいよ」と言われたが、薬の怖さを知っているだけに、それは出来ない。
後は体力で何とかなると思い、薬は買ったものの、あれ以来一切薬は飲んでいない。
ここは地道にラジオ体操とかで、体のバランスを整えていくことにするか。

【本を読んでいて、君のことを思い出した。
一昨年の大晦日、いや、昨年の元日に君と別れてから、もう2年が経とうとしている。
ぼくは今もなお、大ボラを吹いて生きている。
日に日に冷たくなる東京の風を身に受けるのが嫌で、一刻も早く福岡に帰りたいと思っている。】

今日も古いノートを引っ張り出して読んでいる。
汚い字で読みづらいのだが、読んでみるとけっこうこれが面白い。

【高校を卒業してからの、あの2年間の空白は何だったのか?、
それは『生きる』ということだった。
そのことがわかって、ぼくは急に東京に出たくなった。
生きているという実感を、親元を離れて味わいたかったのだ。
・・・・・。
出発の日、ぼくは7時に起き出して、朝飯もそこそこに、逃げるようにして家を飛び出した。
まったく、その日の寒かったこと。
冷たい風に追われるような気がして、ぼくは足早に駅に向かった。
汽車に乗った時、ホッとしたのと同時に、なぜか敗者の感がぬぐえないでいた。
考えてみたら、福岡がだめだったから東京に、という感じがする。】

なるほど、東京に出た時はそんな気持ちになっていたのか。
希望を持って上京したと記憶していたが、実際はこうだったのだ。

その当時の生活や、忘れていた出来事などの発見もある。
東京にいた頃、2週間を2千円で過ごしたことがある。
バイトはしていたものの、収入よりも支出のほうが多く、経済が破綻したのである。
その時の状況も書いている。

【・・・、気がつくと手元には2千円しか残ってないのだ。
そのため、ぼくは苦手な計画を立てた。
風呂は週に一度だけ、タバコはもらいタバコ、2日に一度は昼飯抜き。
本当に空腹というものは辛いものだった。

その頃、同じ境遇の者が集まって、『昼飯抜きもらいタバコ同盟』みたいなものができていた。
一日の割当金を寄せ合って、60円のコーヒーを飲み、人にパンを恵んでもらっていた。
しかし、他の連中は、ぼくより幾分恵まれていた。
なぜなら、彼らは朝飯を食うことが出来たからだ。】

本当に情けない日々を送っていたものである。
この時は何とか乗り切っているが、その後もこういう状態に陥ることがたびたびあった。

【・・・、結局ぼくにとっての東京とは、敗者の行き着いた所に過ぎない。
夢もない。
希望もない。
人間もいない。
ただ、街があるだけ。
時々、新宿に行くと寂しくなることがある。
空は晴れていても、友だちがいても、本当に泣き出したくなることがある。
同じ世代の若者と、ビルとビルの狭間ですれ違う。
その顔には、ぼくと同じくらいの歴史がある
彼らも、彼らなりに、彼らの人生において寂しいのだ。
ディスコやゲームセンターで大はしゃぎしても、彼らの心の中には冷たいすきま風が吹いているのだと思う。
泣きたいのだ。
何かわけのわからない矛盾したものに、涙したいのだ。
それは、酒を飲んでも充たされるものではない。
踊り狂っても、女を抱いても、決して充たされるない。

最近、旅に出たいと思っている。
それで、その何かが充たされるとは思ってはない。
しかし、そこには何かがあるような気がする。
その寂しさは紛れないにしろ、また違った寂しさを味わうのも悪くはないだろう。

このまま、すんなり就職なんかしたくない。
今を充たされぬまま、先を求めるようなまねは、絶対にしたくない。】

アホか!。
きっと一人で、何もすることがなかったから、こんなことばかり考えていたのだろう。
とは言え、ぼくはこの言葉通り、福岡に帰ってきても、すぐには就職はしなかった。
しかし、それは充たされないものを探していたわけではなく、就職がなかったからであるが。

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