昌老

人生万事大丈夫!

 昨日の写真の続きだが、ぼくは人生節目の写真を撮ってない。七五三は昨日書いたとおりだ。その後、学校の入学や卒業の写真(集合写真や卒業アルバムは除く)は撮ってないし、成人の写真もない。

 成人の日のこと、ぼくは市の成人式には向かわず、ご祝儀をもらうために親戚周りをしていた。折尾の伯母の家に行った時、伯母が「しんちゃん、写真撮ってあげるから」と言った。ぼくは断ったのだが、伯母がしつこく言うので渋々付き合った。ところが、その時伯母はフィルムを入れ忘れていたのだ。後日その旨の連絡があり、「もう一度撮ってやるから、来てくれん?」と言ってきた。しかし、スーツを着たくなかったし、写真も嫌だ。ということで、写真を撮りには行かなかった。
 もちろん、成人の日に写真屋で撮るようなこともしてないから、ぼくの成人の写真はないわけだ。

 続いて結婚写真だが、嫁さんと二人で「結婚式や披露宴でお金を出すくらいなら、マンションを買おう」と決めたので、金のかかる面倒な儀式はやめ、籍を入れるだけにして、マンションを買うことにした。もちろん、写真は撮ってない。

 今後の節目といえば・・・、何もないなあ。ということは、今後記念写真を撮ることはないはずだから、まともな写真を撮ってきてないぼくには、遺影になるような写真がないことになる。もし今必要になった場合は、何もないからと、直近で撮った免許証の写真(昨年11月撮影)を使われるかもしれない。ぼくはこの写真が生涯で一番嫌いな写真なので、何か別なヤツを用意して目立つ所に置いておかなければならない。

 昨日、嫁さんが聞いた。
「しんちゃん、七五三の写真ある?」
「ないよ」
「え、お宮参りとかしてないと?」
「いや、お参りは黒崎の岡田宮でやったんだけど、写真はない」
「どうして?」

 母親の話では、ぼくは幼い頃、写真を撮られるのが嫌いだったという。とにかくカメラを向けると泣き出したり、逃げ出したりしていたらしい。
 三歳の頃に、父親の仕事仲間と海水浴に行った時のことだが、汽車の中で父親の同僚が「ぼうや、写真を撮ってやろう」と近づいてきた。そしてカメラをぼくに向けた時だった。ぼくは大声を上げて「おまえ、帰れ!」と言ったという。その時の写真があるのだが、カメラを睨みつけている。その後はその人を避けてしまい、写真を撮らせなかったらしい。
 ぼくの七五三、当初はカメラ屋さんで記念写真を撮る予定だったらしいが、そういった前歴があるので、記念写真はやめたのだとか。

 今はそこまででもないが、やはり写真を撮られるのはあまり好きではない。特に写真を正面から撮られるのはいやだ。中学や高校の時の卒業写真を撮る時、無意識に視線をはずしていたらしく、何度も撮り直しをさせられたものだった。

 そんな写真嫌いのぼくだが、一枚だけお気に入りの写真がある。それは高校二年の夏休み,友だち数人と鹿児島に行った時に、開聞岳の山頂で撮った写真だ。それまであまり好きではなかった高校生活が、その旅行を境に俄然楽しくなるのだ。その記念碑として、五十年近く経った今でも、ぼくはその写真を大切に保管している。とはいえ、そのお気に入り写真も正面ではなく、横を向いている。


 前々から思っていたのだが、ぼくはマスクをはずす時がイヤだ。確かに呼吸はしやすくなるし、耳の痛みは気にならなくなるんだけど、はずした時の何か貧乏臭く感じるにおい、あれがたまらなくイヤなのだ。
 そのにおいのせいで、ぼくのいる場所だけでなく、世の中全体が臭く感じてくる。すれ違う人の香水のにおいも、焼肉屋のにおいも、すべて貧乏臭フィルターを通してにおってくる。嗅覚をやられると感覚もおかしくなるのか、夜の風、車の灯、街の声、みんな嘘っぽく感じるようになる。
「この世は終わった」という気持ちにもなってしまう。
 鼻の周りの肌荒れは酷くなるし、やはりマスクをしない生活がいい。

 最近寒いんですよ。まあ寒いと言っても所詮九州の寒さだから、たかが知れているのだが、ぼくにとっては寒いのです。
 三年前まで、ぼくは11月の中頃まで半袖で生活していた。暑くはなかったのだが、寒いとも思わなかったからだ。皮下脂肪のせいでもない。体重は今よりも2〜3キロ重かった程度だ。
 ところが一昨年から、11月上旬に寒さを感じるようになり、長袖を着るようになった。今年にいたっては10月下旬からだ。二年前から気象変動で、この地域だけに寒風が吹くようになったわけではない。ただぼくが寒いと感じるだけなのだ。

 嫁さんにそのことを言うと、
「それは、年取ったからよ」と言った。
「寒さに年齢とか関係あるんか?」
「あるよ」
「あんたは暑がるやん」
「私は更年期障害だから」
 実は現在、嫁さんは夏布団、ぼくは冬布団で寝ている。部屋着も嫁さんは半袖、ぼくは半纏を羽織っている。何も半纏まで羽織らなくても暖房を入れればいいわけだが、「暑い!」とおっしゃる方がいて・・・・。
 これからだんだん寒くなっていく。イヤだなあ。嫁さんはいつから暖房を入れるのだろう。

 東京に出た目的の一つが、ラジオだった。東京でAM放送を聴くのが昔からの憧れだったのだ。ラジオに専念するために、ぼくは下宿にテレビを持込まなかった。
 東京で何を聴いたのかというと、TBSラジオで当時やっていた『マカロニほうれん荘』など一連のラジオ劇画や、文化放送の『セイヤング』だ。
 特に『セイヤング』を聴くのは中学からの夢でもあった。『オールナイトニッポン』や『パックインミュージック』は福岡でも聴くことが出来たのだが、その『セイヤング』だけは、聴くことが出来なかったのだ。ということで、東京に着いた日の夜中、さっそく『セイヤング』を聴いた。運良くその日のパーソナリティは吉田拓郎さんだった。
 もちろん、『オールナイトニッポン』など、福岡時代から聴いていた番組も、そのまま継続して聴いていた。聴きたいパーソナリティが、『セイヤング』と重ならなかったために、それが可能になった。

 その翌年、ぼくは四谷でアルバイトをしていたのだが、四谷駅からバイト先に行く途中に、文化放送があった。初めてそこを通った時にすごく感動したものだった。その後も、もしかしたら吉田拓郎さんや吉田照美さんに会えるかもしれないと、いつも期待して歩いていたが、結局彼らには会えなかった。もし会えたとしても、何を喋っていいのかわからないので、会えなくて良かったとは思っている。
 憧れであった東京のラジオ生活は、そんなに長くは続かなかった。前に『南の窓』で書いたとおり、ぼくが下宿にあまり帰らなくなったためだ。

 その後ぼくは八幡に戻り、一般企業に就職した。就職した当初は飲みにばかり行き、いつも午前様だったため、深夜放送など聴く暇はなかった。
 就職してから一年経ち二年経つうちに会社はブラック企業に変ぼうしていった。今度は仕事で午前様になってしまったのだ。もちろんラジオを聴く暇などありはしない。そのうちラジオどころか、テレビも見る気が失せていった。

 十数年後に、そのブラック企業をやめ、地場の会社に再就職した。そこはブラック企業ではなかった。逆に「早く帰れ!」と言われるくらい就業規則が徹底していた。しかし、ラジオは朝晩行き帰りの車の中とプロ野球中継を聴く程度で、深夜放送まで聴くことはなくなった。相変らず『オールナイトニッポン』をやっているのは知っているが、「もういいや」という感じで、聴くことはない。

 さて、深夜放送から始まった寝不足だが、それを聴くことがなくなったので早寝するようないなったのかというと、そうではなかった。その頃からインターネットのブームが始まり、ブームに乗ってぼくはホームページを起ち上げた。物事に凝ると、時間を忘れる質なので、当然の如く夜ふかししてしまう。
 ということで、八幡に戻ったぼくは、ラジオ(深夜放送)とは縁が切れてしまったが、寝不足とは縁が切れない生活を続けることになった。
 その習慣を変えようとしているのが、まさに今なのだけど、さてどうなることやら。

1,
 ここ数日、早く寝ている。最近は夜中に見たいテレビ番組も減ってきたし、見たい番組があっても録画して後で見ればいいから、とにかく疲れを癒やそうと、早い時間に布団に潜り込んでいるわけだ。
 おかげで寝起きはいいし、体調もいいようだ。この調子でいけば、長年の寝不足疲れが取れるかもしれない。そうなると、健康診断でとやかく言われることはなくなるだろう。ぜひ早寝の癖を付けていくようにしたい。

2,
 ぼくの寝不足人生は中学時代に始まった。ラジオで『オールナイトニッポン』を聴くようになってからだ。毎日毎日2時3時に寝るのが常だった。
 日によっては朝5時まで聴いていることもあった。そんな日は、『オールナイトニッポン』が終わると、
「ケービースィー(KBC)、ケービースィー、こちらは九州朝日放送です」
 というアナウンスのあとの『朝の小鳥』という番組が始まってから、ぼくは床に就いていた。7時半に起され、学校に行く準備をし、8時半に『ピンポンパン』を見終わってから、ダッシュで学校に向かう。5時まで起きていた日は、決まって授業中に居眠りしていた。

3,
 当時はまだワイドFMなどなかったので、AMの放送局はそのままAMバンドで聴くしかなく、夜中になると海の近いわが地域は、変な放送が混じって聞こえていた。これが実に酷く、地元の放送よりも、海外の放送の音が大きかった。
 これは以前ブログに書いたものだが、

ピチッ、ガーーーーーーガーー
ガーピッ、ピッ、ビッ、ビュー
ピー、ユーー、ギュー、ガーー
・・ちら・ペッキン放送局で・
・・国の偉大な指導・・・毛沢
ツ-同志ツーツツー、ゥワーー
ガーーーー、ギーーー・・ニダ
ボ、ボ、ビー、♪~ニダー~♪
@#X+◎♭・・建省では農・
・・・ガーーー♪~サラミ~♪
ギュー、ガー、ジー、ビーーー
♪・バーヤング、パヤパヤ~♪
ピー、ユーー、ギュー、ガーー
♪・知らないま・・ァウ、ウァ
ウァウ、ウァウ、ウァー、オー
ルナイトのK・・ニダー、アー
・・ソントン・、フィガロフィ
ニダ・・ニダ・・ピュー、ガー

 毎日こんな状態で深夜放送を聴いていた。当時の洋楽の情報も、この状態から仕入れていたため、アーティスト名や曲名がよく聴き取れず、よく友だちに、「そんなアーティスト聞いたことない」とか、「そんな歌あったかなあ」とか言われていたものだった。

4,
 FM放送を聴きだしたのは高校からで、お気に入りのテレビ番組がない日は、当時FM福岡でやっていた『FMバラエティ』から『JET STREAM』まで聴いていた。とにかく音がよく、海外の放送も入らないので、中学時代のようにアティスト名や曲名を間違えることはなくなった。ぼくがボブ・ディランを知ったのもFMの番組だった。

5,
 高校時代も、AM放送の受信の悪さは相変わらずだった。そんな中でも『オールナイトニッポン』の吉田拓郎の日は聴いていた。
 憶えているのは高三の時、75年8月の吉田拓郎の日だ。その直前に拓郎が静岡のつま恋でコンサートをやったため声が出ず、泉谷しげるが出てサポートしていた。その日、ぼくは高二の時の同級生と皿倉山でキャンプに行っていた。家と比べると比較にならないくらい放送状況がよく、難なく聴くことが出来たのだ。
 この放送を聴きながら誰かが、
「Uちゃん、このコンサートのチケットを手に入れたんだけど、結局行かんかったみたい」
 と言った。実はこのコンサートは曰く付きのコンサートだった。夜通しやることになっていたので、県の教育委員会から「行ってはいけない」というお達しが出ていたのだ。その話をしながら、ぼくたちは「飲んではいけない」お酒を飲んでいた。

1,
 ぼくは、このブログで自分の住んでいる場所を『福岡県八幡』と書いている。どうして正式の名称である『北九州市八幡』と書かないのかというと、東京にいた頃、『北九州市』と言っても知らない人が多くいたからだ。
「君、いなかどこ?」
「北九州市」
「ああ大分県か」
 こんなやりとりをいつもやっていた。それでぼくは『北九州市』と言うのをやめ、『福岡県八幡』で通すようになった。義務教育を受けた人なら、『八幡製鉄所』くらいは知っていると思ったからだ。
 ではなぜ福岡県を入れるのかというと、『八幡』と言うと、京都の八幡と間違われるからだ。ちなみに読みは、福岡は『やはた』で、京都は『やわた』だ。

2,
 今はどうか知らないが、ぼくが東京にいた頃は、九州のことを知らない人が多くいた。例えば、
「福岡市の近くに博多ってところがあるだろ?」
「博多は福岡市の近くじゃなくて、福岡市の中にあります」
 とか、
「福岡県の県庁所在地は博多市だろ?」
「博多市なんてありませんよ」
 こんなやりとりが何度もあった。九州一の大都市でさえその程度の認識だったのだ。

 その頃、八幡製鉄所を見学したことがあるという人と話したことがある。ちょうどぼくが八幡から東京に戻ってきた時だった。
「いなか帰ってたんだ」
「はい」
「いなかはいいでしょう。空気がきれいで星が見えて」
 この人は八幡に行って何を見てきたんだろうと思ったものだ。当時の八幡は、街が臭く海が汚く星が見えない典型的な工業都市だったのだから。今は知らないが、ぼくが東京に住んでいた当時は、八幡よりも東京の方が、ずっと星がきれいだった。

 他には、すでに新幹線が博多まで開通していたにも関わらず、博多の手前の小倉を「こくら」と読まず、『おぐら』と読む人が多かった。ぼくはいつも、
「京都じゃないんだから」と言って読み方を正していた。
 まあ、彼らにとっては、『こくら』でも『おぐら』でも、どちらでもよかったのだろう。関東で生活していく上で何の支障もないのだから。
 でもね、大分や宮崎に行く時には困りますよ。乗り換え駅は『こくら』なので、『こくら』と憶えている人は、車内案内で「次はこくら」という放送があれば、すんなりと下車できる。しかし『おぐら』と憶えていると、いつまで経っても「次はおぐら」という案内はしないから、下手すれば乗り過ごして博多まで行ってしまう可能性がある。

3,
 義理の叔母の話だが、彼女は神奈川生まれの神奈川育ちだ。叔父と結婚するまで、一度も九州に行ったことがなかったらしい。
 その後九州に来ることになるのだが、その時の出で立ちがえらく野暮ったかった。後で話を聞いたのだが、九州に行くのだから、山道やあぜ道ばかり歩くと思い、そういう出で立ちになったらしいのだ。実際自分の住んでいる場所よりもずっと都会だったという。

 一般的に九州というと、ど田舎扱いになっているが、それは仕方のないことで、九州をど田舎にしなければならない歴史の事情がそこにあるからだ。それを明らかにすると、今の日本が成り立たなくなってしまう危険性があるわけだ。そのことは、今後徐々に明らかになってくると思います。ヒントは『白村江の戦い』にあります。

 ぼくの住む福岡県八幡の隣に、水巻という町がある。その昔は炭鉱町だったが、今は北九州のベッドタウンになっている。
 その水巻町に、『月夜待』という名の交差点がある。場所はJR東水巻駅(福北ゆたか線)の上にある。なんで上なのかというと、線路と道路が立体交差していて、道路が上を走っているためで、この交差点は駅の上を数メートル西に寄ったところにある。
つきよまち

 この交差点を知ったのは19歳の頃で、バイトでそこを通った時、運転している人に
「あれ、何と読むんですか?」と聞いたら、
「つきよまち」と教えてくれた。
 ロマンチックな名前だなと思い、その時からいつかこの『月夜待』をテーマにした歌を作りたいと思っていた。
 それが出来たのが25歳の時、そう何度も言うようだが、高校時代から好きだった人の結婚を聞いた時だった。本当ならこの名前の通りにロマンチックな歌にしたかったのだが、結局は失恋の歌になってしまった。

『つきよまち』

君に逢えれば こんなことだって
忘れられると 思ったものさ
笑い話に 君のことを
歌ったことも 昔のことさ

夢はいつも 美しいもので
しあわせそうな 二つの影を
映し出しては 消えていった
あこがれては 思い悩み

 つきよまちから 二つの道を
 選ぶいとまが 君との川で

流れては 遠くなる恋を
見つめては しあわせなんか
こんなおれに くるもんかと
つぶやきながら あおる酒よ

 つきよまちから 二つの道が
 出逢うところで 君を夢見た

いつか知らず 時は過ぎていった
君に逢えるのは 夢の中だけと
つきよまちに かすかに浮かぶ
月を見ては 君を想う

 → ♫つきよまち


 この曲が浮かんだのは会社帰りに、駅から自転車で家に向かっている途中だった。曲を忘れまいとして、そこからダッシュで帰ったのだった。
 家に帰ってから、さっそくラジカセに録音した。その後、すぐに詩に取り組んだのだが、五分で出来てしまった。しかも、この詩は作った時のままで、その後一切修正を加えてない。きっと自分の中で熟成していたのだろう。

 この歌を作った当初、ぼくは失恋のこともあって、この歌をまったく評価してなかった。ところが、友人が「つきよまちという歌、けっこういいね」と言いだした。そして仲間内でちょっと話題になった。それに気をよくしたぼくは、それから数年後に、この歌をレコード会社に売り込んだ。しかし、聴いてくれたのかどうかわからないまま、うやむやになってしまった。その後も、ことあるたびに、レコード会社や明太子屋に、この歌を売り込んでみたのだが、やはりダメだった。

 しかし、どうしてここを『月夜待』と言うのだろう。その辺に住んでいる友人にそのことを聞いてみたのだが、「知らん」と言う。前の会社の上司もその辺に住んでいるので聞いてみたが、やはり「知らん」と言われた。
 まさか炭鉱繋がりで、「月が出た出た、月が出た」の炭坑節と何か繋がりがあるのだろうか。そうだとしたら嫌だな。この地名の持つムードが壊れてしまう。
 ぼくとしては、「月が綺麗ですね」の月であってほしい。

 ※なお、この詩の『つきよまち』と実際の『月夜待』は、地理上若干の違いがあります。歌詞を優先にしたためです。悪しからず。

 数年前、それまでまずまずだった視力が急に落ちてしまったことがある。運転中に見づらくなったのだ。元々乱視だったので、その影響かと思ったのだが、乱視の見づらさとはちょっと違う。説明しづらいが、要は前の車のナンバーが見えにくくなったということだ。まあ長い時間(1時間近く)運転した場合だけだが。

「このままでは危ない」と思ったぼくは、眼鏡を買うことにした。最初は「安いのでいいや」と激安のメガネ店で、プラスチックのフレームのヤツを買った。しかし、帰ってからかけてみると、どうも似合ってないような気がする。というか、おもちゃのメガネをかけているように見えるのだ。とはいえせっかく買ったものだからと、しばらくそれを付けていた。

 それから数週間後、たまたま行ったコストコでメガネのセールをやっていた。『有名ブランドのフレームが半額』と書いているではないか。なるほどRay-Banなどのブランド物が半額になっているし、レンズも安い。おもちゃのように見えるメガネより、ブランド物のちゃんとしたヤツがいいに決まっている。しかもそのブランド物が、普通のメガネ屋さんのおよそ半額、つまり一本分で二本買えるということだ。ということで、運転用と仕事用の二本買うことにした。

 さてそのメガネ、運転用の度の強い方はしばらくして慣れたのだが、仕事用の度の軽い方がなかなか慣れないのだ。スマホを見る時は外さないと気分が悪くなるし、書類を書く時は字が変になるし。そのうち仕事中はメガネをかけないようになった。 
 しかし、そうなるとせっかくのブランドフレームがもったい。ということで、レンズを運転用に替えることにした。

 早速コストコに行った。ところが、そこでまたいいフレームを見つけたのだ。迷った挙句、気に入ったメガネを二本買う。もちろん当初の目的のレンズ交換も行った。結局、激安メガネ店のヤツと合わせて、ぼくは五本のメガネを持つことになった。その五本(実際はブランド物の四本)をその日の気分で着かえていた。

 それから数年が経った。今はどうしているかというと、メガネをかけてない。というか、メガネをかける必要がなくなったのだ。前にも話したが、ぼくは現在スワイショウという運動を朝晩やっている。スワイショウの解説本に書いてあったが、この運動、視力回復にも効果があるらしい。始めて十カ月ほどになるが、運転中も、もちろん仕事中も、メガネをかけないでもよく見えるようになったのだ。乱視も改善されているみたいだし、先月の健康診断でもいい数値だった。

 この歳(昨日で64歳になった)になっても老眼鏡は必要ないし、よくよくぼくはメガネに縁がないようだ。さて、使わなくなった五本のメガネ、どうしよう。

 『赤いエプロン』でも書いたのだが、ぼくは25歳の時、嫁さんと正式に交際を始めた。付き合いだして一カ月程たった頃だった。嫁さんは新しくできた支店に、無期限で応援に行くことになったのだ。戻ってきたのは数か月後で、その間ぼくは狂ってました。まだ携帯電話もなかった時代だから、連絡の取りようもないし。いつも総務に行って、「いつ帰ってくるのか?」と尋ねていた。いつも答えは「さあ?」だった。だから帰ってきた時の喜びと言ったらなかった。

『今日も君を想い出にする』

今日一日が情けなくて
ぼくは何気なく君を見る
君はかすかに笑みを浮かべ
小さくうなずいて席を立つ

ぼくはやっぱり君が好きで
二度と離れて暮らすなんて
とても出来ないことなんだと
君をまた今日の想い出にする

 途切れた愛の日々を
 ひとつひとつ想い出しては
 胸の痛くなるような、そんな一日

ぼくがこうして上を向いて
いけるのも君がいるからのこと
君を愛する、だからぼくがいる
今日も君を想い出にする

 → ♫今日も君を想い出にする

 今日の歌は、数カ月後に嫁さんが職場に戻ってきた時に作った歌です。
 嫁さんとはすぐに結婚したわけでない。まあ、その後いろいろあったわけです。しかし赤いエプロンで結ばれた縁というんでしょうか、最終的に落ち着きました。


 東京にいた頃、ぼくは年寄り夫婦が経営する下宿屋の二階に住んでいた。家は木造で作りが悪く、ちょっと強い風が吹くと家は揺れるし、窓からは隙間風が吹き込んでくる。
 そういう家だったから、ギターを弾いて歌を歌えば当然音が外に漏れる。ということで昼間はともかく、夜は気を遣ってなるべく音を出さないようにしていた。
 おかげで夜に曲が浮かんできた時は、困ったものだった。とにかく譜面が書けないから、曲を残そうと思えばラジカセに録音しなければならない。しかも、持っていたラジカセは壊れかけていて、大きな音じゃないと音を拾わない。仕方なくとった手段が、押し入れの中で、布団をかぶって録音することだった。
 ということで、今日紹介する『南の窓』は、押し入れの中で布団をかぶって作った歌です。


『南の窓』

君の開けた南の窓は
今もまだ開いたまま
君の想い出運ぶ風よ
もう一度にぼくに吹きつけろ

汗のこもった小さな部屋は
君がいた頃のままにある
君がくれた小さなオルゴール
ネジの切れたまま春を待つ

何も出来ない君がいないと
冬の寒さに凍えながら
春を待てば気も遠くなる
ああ吹く風よ、もう一度だけ

君の落とした小さな影法師
もうぼくには見ることが出来ない
君をなくして風をなくして
ただ南の窓に春を待つ

 → ♫南の窓

 そのうちぼくは「ここにいても埒が明かん」と思うようになり、音出しOKの友だちの家を泊り歩くようになった。下宿に週一日か二日しかいなので、大家はぼくの実家に、「いつも家にいないので心配で・・・」などと言って電話していたらしい。
 こう書くと『店子思いのいい大家さん』と思うかもしれないが、そんないい人ではなかった。その辺のことは、また後日。

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